生存記録

社会人5年目が日々生きているブログです。ライフハック、旅行、お散歩、映画、読書について書きます。

安部公房『壁』「S・カルマ氏の犯罪」についてのちょっとしたカキコミ。

 先日、とある友人と安部公房『壁』の「S・カルマ氏の犯罪」についてtwitter上で少し話をする機会を得た。とても難しい作品だと思うし、なんだかんだよく分からないけど面白いという、頭の悪い感想に終始してしまうところもある。今回は丁度良い機会であるし、昔学校に提出したレポートを引用しながら、誰かの助けになると幸いであると良いと思い、ちょっくら書いて行こうと思う。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 

 安部公房の初期短編、『壁―S・カルマ氏の犯罪』(昭和四四年・新潮社)は主人公であるS・カルマ氏が「名前」を失うということから展開し、、最終的には「見渡す限りの曠野」の中で「静かに果てしなく成長してゆく壁」になるという変身譚であるのだが、ここには「社会的属性を喪失した人間」が描かれている。作者の自身、エッセイの「S・カルマ氏の素性」(『安部公房全作品13』昭和四八年・新潮社)において

  

このナイーヴで平凡な、わが主人公は、私の考えでは一種の実存主義者らしい。

 

と言及している。また、作者である安部自身も『ユリイカ』でのインタビューにおいて(平成六年 八月号 青土社)、「自分を実存主義者だとお考えですか。」との質問に、

  

  ええ、多分。戦時中、高校生だったぼくは戦争反対主義者でした。その頃読んだのはヤスパースハイデッガーフッサールですが、程度の差こそあれ間違いなく何らかの影響を受けました。(中略)サルトルはまったく好きになれません。彼にはユーモアセンスというものが欠如している。ユーモアなしでは現実を耐えていけません。

ぼくが実存主義に傾倒した一番大きな理由はごく単純で、「存在が本質に先立つ」とぼく自身が考えたからです。

 

と答え、自身が実存主義者であったことも述べている。

 

Ⅰ実存について

ではまず「実存」とはなんぞや。なんなのか。

 

実存主義辞典』での「実存」の項では以下のように書かれている。

 

 日本語としては、実存は、真実存在という言葉の中間の二文字を、あるいは現実存在という言葉の中間の二字を、とったものと考えていい。つまり、真実にして現実なる人間存在、という意味を含ませた言葉と見ていいだろう。(中略)

 Existenz(実存)という語は、ラテン語のexistentiaに由来している。(中略)ところで、existentiaは、語源的にはex-sisito(外に-立つ)の名詞化であり、exsistoとは普通に「外に歩み出る」とか「突然現れる」とか「生成する」とかいう言葉であった。したがってexistentiaとは、現実に具体的に存在するもの、あるいはそうしたものの成立や現存や生存を示す概念である。

 エクジステンティアは現実の具体的な存在者を示す言葉として、概念上はエッセンティア(essentia 本質)と対応するものだった。エッセンティアは事物や人間における恒常の本質として、以前にも今でも今後も不変同一な理念、実質、核心であろう。(中略)人間の本質といえば、個々の人間が死んでも変わらず同一のものと考えられる普遍的な人間性とみなされるのに反し、エクジステンティアは生誕し現存し死去する個々の人と見ていいだろう。(中略)

 一般的なモデルのような抽象的本質が先にあって、それに合わせて、あるいはそれを基盤にして、われわれは自分の何者であるかをつくるだろうか。むしろわれわれは、自分自身の自由と選択を通じて自己なりの本質をも形成してゆく者でなかろうか。自分を真実にも不真実にも形づくってゆくのは、われわれひとりびとりの責任であり、自由ではなかろうか。

 

と論じており、「実存」とは「個々に自己を形成していく人間存在」のことを指すとして

いる。更に、

 

 この現存する自分は、日常的には世間の生活裡に埋没し、現実に真実に自己自身であるどころか、むしろ「われを忘れて」世事に忙殺される。(中略)そこからしてわれわれは実存が単なる物理的な現存物でなくて、今ある自分の裸かの事実存在を否定して現実真実に自分と成ろうと企てる存在であることを、知る。(中略)実存は絶えず可能的でも現前的でもある自分の虚像に抗して自己を守りあらしめる者でなくてはならない。(中略)実存は自分の足下に襲う「虚無」と「亡び」に挑戦し、虚無と滅亡を克服しゆくところに求められ、現われ、形成されなければならない。実存が現実に真実な底存在だといっても、その現実性は直接的な自然性の意味でのリアリティーを否定し乗り越えて捉え直されねばならないし、その真実性は直接的な事実性の意味での事態を否定し乗り越えて把握し直されねばならない。こうした自己否定と自己超越の絶えざる反復の試みにおいてこそ、実存が自覚的に主体的に現成しあるいは創造されるのである。

 実存の超越や生成といっても、(中略)自己の落態や自己喪失を自己否定的に乗り越すこととして、現在のあり方に決断をもって告別し、新しい自己存在に転身する行為でなければならない。(中略)実存は、こうした決断と飛躍の主体的行為において、繰り返し捉え直されてゆくものとして真実に現成する。実存は、その点で、決断存在でなければならない。

 

と論じ、「実存」の決断的主体性、超越性を論じている。そして、それを引き起こす限界状況について、

 

 (中略)いかなる限界状況も、真実の自己のありかたを探求する実存としては、回避することはできない。(中略)他人に代わって引き受けてもらうことのできないものである。それから逃亡することは、真実に現実に自己であろうとする実存的人間たることを捨て去ることを意味する。

 

として、実存的人間の苦しみについて言及している。

 

「法と権利は名前に対して関係するものである」から永遠の被告人になってしまうという限界状況に陥ったカルマ氏は、社会的存在性を見失っても現実的に存在している「ぼく」を自覚していることが、作中での一人称という形態を用いて示されている。作品は「裁判」からの逃避に展開されるが、「逃避」という行為そのものに主体=自己が存在していることもまた真実である。つまり、『壁』のカルマ氏は実存的性格を持っていたと言うことが出来る。もしくは、外部的要因を一切排除された実存そのもの、とも言うことが出来る。

 

ここで、カルマ氏の実存について、李貞煕「阿部公房 『壁―S・カルマ氏の犯罪』論」(筑波大学『文学研究論集』一二 一九九五年)を紹介したいと思う。(ちょっと長くなるのでなんとなく読み飛ばして頂いて構わない。)

李氏は、この作品についてルイス・キャロル的「あべこべの世界」ビジョンと、変身のモチーフを根源に論を展開しているのだが、「実存」はやはりキーワードとして出現している。

 

「カルマ」というのは、サンスクリット語で、「Karman(業)」。もともとそれは行為、広くは所作や動作、もののはたらきを示すが、仏典では、過現未三世に薫州として伝えられる意志による心身の活動という意味になる。(中略)「カルマ(業)」の意味の中に、善か悪か無己(非善非悪)といった倫理的価値判断が内包されるということになる。(中略)そうすると、暗示的なのが「S」という頭文字であろう。(中略)同じサンスクリット語サンサーラSamsara)と「Sin」である。まずサンサーラは輪廻という意味で誕生、死、転生というとどまることなく円環の中にある諸個人を含む、この経験世界における存在の流浪を意味している。(中略)また、「Sin」は、第一(宗教上・道徳上の)罪、罪業。第二(礼儀作法に対する)あやまち、過失、違反。第三、気が利かないこと、ばかなことという意味がある。(中略)それからすると、「S」と「カルマ」とは因果関係のよって悪の存在をうむことになる。すなわち、主人公「S・カルマ氏」は悪の表象ということになろう。(中略)すなわち「S・カルマ」氏が、「S・カルマ」という名前を喪失することによって「心と体」と「名前」が分離していく。

(中略)この作品のなかで主人公が名前を失うという状況は、単なる機能としての記号の喪失にとどまらない。安部公房にとっては、「S・カルマ」という名前はまさに悪の実存性を表象するものであるところからすれば、「存在感の回帰」とか「既成秩序からの脱落」ということだけでは解釈しえないのではなかろうか。

(中略)「名刺」は「おれは敵から名前を奪い、敵は名前を失った」と豪語し、みずから「S・カルマ(悪)」そのものになる。この特異な分身モチーフには、その根底に人間の実存の問題が秘められている。

(中略)かれにとっての実存とは、単に身体論のレベルにとどまるのではなく、身体に付着する従属物―名前もその一つだがーである名前という記号を媒介にして外部の社会に求められているのではないだろうか。「心と体」と「名刺」の対決は決して実存と社会性の対決といったような公式で割り切れるものではない。実存と社会性というのは一つの人間存在の両面であった。

 

 更に李氏は名刺や上着、ズボン達が表明した、「死んだ有機物から生きている無機物へ!」のキャッチフレーズに代表される、「あべこべの世界」を想起させ、人と物の逆転を形象化したことについて言及し、論を進める。

 

  (中略)名刺カルマ氏は「俺は敵から名前を奪い、敵は名前を失った」と叫んだとき、みずから「S・カルマ」そのものになった。すると、この社会には名刺カルマ氏が実存するということになるのだろうか。その場合、身体論的レベルのS・カルマ氏は、悪なる実存を脱却して、自由を獲得したといってよいのだろうか。分裂そのものに「罪悪」を唱えるルカーチ的価値観(注1)からみれば、〈人〉と〈物〉いずれにも「罪業」があるというべきだろう。現代の都市に住む限り、悪からの自由などはありえない。(中略)それゆえに世界の果てへの逃走というモチーフが重要になってくるのである。

 

こうして「物象化」そのものに対する罪業を持つルカーチ的価値観を参考にし、李氏は最

後終部の「世界の果てへの逃亡」の重要さについて述べている。

 最終部、世界への逃亡については多くの論があるが、李氏は以下のように言及

している。

 

  カルマ氏の胸の中にひろがる「曠野」とは、都市に住んでいたかれが自分の名前を失うことによって、その空白の中に侵入してくる孤独と不安の寓喩であった。(中略)「世界の果」はカルマ氏が唯一生存できる場所であるが、そこは名前も職場も家族も恋人も、それらすべてを遠ざけ、捨てきった極限であった。

 

   (中略)実存哲学では、人間が追い詰められたぎりぎりの状況を「壁」という。ヤスパースはこのような状況を「限界状況」と名付け、そしてそれを体系的に三つの異なった範疇に区分している。(注2)そのなかの第一の限界状況のみに言及すれば、〈私〉があらゆる可能性の全体として一般的に存在するのではなく、現存在として常にある特定の状況の中に限界づけられてあるということである。(中略)限界状況に直面したとき、一般にそれに対応するために二種の行動が可能であるとされている。ひとつは、限界状況を察知することができないか、あるいは故意にそれを回避したりすることである。ふたつは、正面から限界状況を引き受けて、一旦は絶望に陥るが、やがて回生していくことを通して、限界状況を超克しようと努めることである。(中略)けれども、カルマ氏はどちらにも属さない、まったく別なものに変身する。(中略)

   カルマ氏は知らず知らずのうちに名前を奪われて、現実の都市から疎外されていく。その中で「孤独」というものが胸の中に生じる。それは「壁」の成長とともに大きくなっていく。とすれば、「壁」というのは「曠野」と同じく孤独の塊といってよかろう。(中略)カルマ氏とは別に、すでに「壁」になって成長してゆくものがある。「壁」になるのは、カルマ氏だけではなく、都市から疎外された人間すべてが「壁」になっていっているのだ。(中略)それはまさに都市の孤独と不安の表象でもあろう。

 

このように李氏は「壁」のモチーフとして、「都市によって限界状況に陥った、孤独な人間

達の孤独そのもの」を見た。

 

 他の論文としては、石橋紀俊が「安部公房―『S・カルマ氏の犯罪』論―自我・変身・言

葉―」(昭和文学会『昭和文学研究』一九九八年 二月号)でせむしの言うもう一つの世界

の果ては読者であることに言及していたり、久保田芳太郎の「安部公房「壁―S・カル

マ氏の犯罪―」」(至文堂『解釈と鑑賞』一九七八年 四月号)においては成長していく壁

のことを「現代そのものの象徴」としたものが挙げられる。

 

Ⅱ成長していく壁、世界の果 について。

李氏の言うように、最終部、「成長していく壁」は「都市によって限界状況に追いやられた孤独なもの達の孤独そのもの」なのだろうかという事案についての考察。

 

まずは世界の果てについて。これは以下の点の特徴がある。

 ①せむしの言う現在の世界の果は、「みなさん自身の部屋」のことで、壁は「それを限定する地平線」であるということ

 ②そこは現実に行われ、世界中どこでも付きまとう「裁判」から逃れ得る唯一の場所であること

③世界の果は主人公の胸の中で、そこには目で吸収した曠野が広がり、そこにあるのは成長する壁のみであるということ。

 ④世界の果に到達した主人公の人称は、「もはや彼と言わなければならないでしょう」とあるように人称が「ぼく」から「彼」へ変わること

が挙げられる。

 

まずは、①、②について。、「世界の果」とはカルマ氏に襲い来る「裁判」の追いつかない場所、つまるところ現実、リアリティ、都市とは異なる異質な場所である。元々の曠野が病院に置いてあった、本の絵であったということからも伺い知れる。

 

③について。せむしは「世界の果はそれを想う人たちにとって、もっと身近なものに変化したわけなのです。言いかえると、みなさん方にとっては、みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線に他ならぬ」と言っている。李氏の意見を参考にし、実存的局面からこれをみると、ヤスパースの言う実存哲学における「壁」とはつまり実存的極限そのものであり、端的に言うならば「疎外」や「孤独」という状況である。では、壁によって隔てられるものはなんであろうか。それは自己の疎外による完全な「他人」に表象される、都市や田舎等の「社会」と、それに対する「自分の部屋」、つまり「世界の果」であり、それは「他人」と対応する「自分自身」である。カルマ氏は、他人、都市、社会との関係性を一切切り捨てた、「裸の実存」へと向かうこと。その試みが「世界の果への逃亡」だ。せむしの言う「変化した」というものは、このような自分の実存に迫りやすくなるように世界が動いてきた=実存主義の誕生、ということに他ならない。

 

すると④のことの説明が付く。「世界の果」は極限的な「カルマ氏の実存」そのものであるから、それを語るには、外部の人称「彼」を使わなければならない。「自己の実存を模索している自己を自分で語る」という形容矛盾を避ける為の、「彼」という呼びかたなのである。

 しかし、カルマ氏の実存の表徴である世界の果には何があったか。以下は、カルマ氏が壁に吸い込まれたあとの描写である。

 

  なお壁を見つづけると……彼ははるかな地平線を見つめているのでした。次第に辺り

が暗くなり、青白い月が天頂の窪みにころげこんでいました。彼は膝をかかえて下級

  に坐っているのでした。

 

それは講演会の映画で見せられた映像と同じ、前半でカルマ氏が吸収した、病院の本の写真、無限の曠野に他ならない。あるのは砂で満ちた砂漠のみである。そこには他の「カルマ氏たる本質」を示すものは存在しないのだ。

安部公房の作品、『砂の女』(新潮社 一九八一年)で、砂について

 

砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、うけつけようともしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとおしさとくらべて、なんという違いだろう

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 という、砂についての考察がある。つまり、「不毛であり、現実とは違う」ということが読み取れるが、それが読み取れるだけで、何らカルマ氏がカルマ氏たる「本質」はそこには存在していない。敢えて言うならば、曠野を吸収する際の砂の描写に、「砂は指の間からさらさらと流れ落ちて、後にはなんの感触も残りませんでした。」とあるように、「社会・都市」という概念を除いた後に残った、「社会」から切り離された、主人公の実存は「不毛」な曠野でしかなかったのである。そもそも、「S・カルマ」という「名」も、作中において彼自身が自分で発見したのではなく、根拠はあくまでも「その名刺があった」というだけなのであり、それが本当の名前であった保証はどこにもない。作中ではただの「ぼく」である。

 

そして、彼は壁に入っていく。この壁は前述したようにヤスパースにおける「実存的極限」としての「壁」である。この中では「都市主義者」、すなわち他人であるユルバン教授。ドクトル一行と主人公との間で最後の事件が起こる。ここにおいて舞台が曠野やカルマ氏の自室を行き来するのは、実存そのものであるカルマ氏の意識の向き加減と見て良い。実際に、「他人」であったはずのY子がカルマ氏を助けてくれた後、壁の中の部屋を出た場所は「都市」と現実的に対比可能である「カルマ氏の自室」だった。しかし一方、人称はまだ「彼」であり、味方であったはずのY子とも「最後の別れ」を経、涙でユルバン教授とドクトルを退けた後は、「曠野」の中で「静かに果てしなく成長する壁」になってしまう。

 壁になるということは、「実存」へ、世界の果への逃亡をすることではない。前述した用語を使えば、「実存的限界状況そのもの」になるということ、世界の果と都市との地平線、その境界線になる、ということである。「超克」でも「回避」でもない。実存主義的見方をすれば、「真実人間存在であること」を辞めたのであり、故に、極限状態そのものである「壁」になった。その実存的限界状況の具体例として李氏が挙げた壁=孤独というのもその通りなのである。

 

しかし、こう言うことも出来る。この都市による疎外によって、「真実人間存在」を辞めるということは「実存的思考」の崩壊である。そして、「都市=社会=他人」との関わりを一切断った時のある一人の人間の本質は「不毛な曠野」であった。つまり、「一人の人間」たるイデアは曠野でしかなかったのだ。これは裏を返せば、人間は常に、「社会」や「環境」と関わりを持ち、「アンガンジェ」するものではないだろうか、というモチーフが、実存主義者、安部公房の手によって、最終部、「壁への変身」に示されていることなのである。

 

脚注

(1)李貞煕氏は同論文で『リアリズム論』(G・ルカーチ著、伊東・小森井訳 理論社 一九五〇年)を参考として挙げている。また、それについての言及は以下。

  

ルカーチは物象化されていく世界をキリスト教的価値観から、「完全な罪業の世界」と批判していた。

 

(2)更に、李氏は論注で第二、第三の限界状況についても言及しているので以下に引用する。

 

 続いて、第二の限界状況は、死、苦悩、闘争、負い目などのように、だれもがその 都度の特殊な歴史性のうちにおいて、一般的な状況として出会う限界状況である。 また第三の限界状況は、以上の二種の限界状況を経験したうえに、現存在一般が限 界状況として捉えられ、そのような状況において、世界内存在としての〈私〉の存 在に疑問符が付けられるような限界状況である。そのような状況は、一切の世界内 在を絶対的な歴史の推移において生滅流転する無常の存在としてみるところの実存 的意識に他ならない。 松良信三郎。飯島宗享『実存主義辞典』東京堂出版 一九 八八年

 

だらだらと長ったらしいものになってしまったことは反省の限りである。

感想や文句等々ありましたら私の方まで気兼ねなくどうぞ。